幸福追求権-賭場開帳図利被告事件
主 文
本件上告を棄却する。
理 由
弁護人山崎一男同遊田多聞の上告趣意について。
賭博行為は、一面互に自己の財物を自己の好むところに投ずるだけであつて、他人の財産権をその意に反して侵害するものではなく、従つて、一見各人に任かされた自由行為に属し罪悪と称するに足りないようにも見えるが、しかし、他面勤労その他正当な原因に因るのでなく、単なる偶然の事情に因り財物の獲得を僥倖せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法二七条一項参照)を害するばかりでなく、甚だしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである。これわが国においては一時の娯楽に供する物を賭した場合の外単なる賭博でもこれを犯罪としその他常習賭博、賭場開張等又は富籖に関する行為を罰する所以であつて、これ等の行為は畢竟公益に関する犯罪中の風俗を害する罪であり(旧刑法第二篇第六章参照)、新憲法にいわゆる公共の福祉に反するものといわなければならない。ことに賭場開張図利罪は自ら財物を喪失する危険を負担することなく、専ら他人の行う賭博を開催して利を図るものであるから、単純賭博を罰しない外国の立法例においてもこれを禁止するを普通とする。されば、賭博等に関する行為の本質を反倫理性、反社会性を有するものでないとする所論は、偏に私益に関する個人的な財産上の法益のみを観察する見解であつて採ることができない。
しかるに、所論は、賭場開張図利の行為は新憲法施行後においては国家の中枢機関たる政府乃至都道府県が法律に因り自ら賭場開張図利と本質的に異なることなき「競馬」「競輪」の主催者となり、賭場開張図利罪乃至富籖罪とその行為の本質を同じくする「宝籖」を発売している現状からして、国家自体がこれを公共の福祉に反しない娯楽又は違法性若しくは犯罪性なき自由行為の範囲内に属するものとして公認しているものと観察すべく、従つて、刑法一八六条二項の規定は新憲法施行後は憲法一三条、九八条に則り無効となつた旨主張する。
しかし、賭博及び富籖に関する行為が風俗を害し、公共の福祉に反するものと認むべきことは前に説明したとおりであるから、所論は全く本末を顛倒した議論といわなければならない。すなわち、政府乃至都道府県が自ら賭場開張図利乃至富籖罪と本質上同一の行為を為すこと自体が適法であるか否か、これを認める立法の当否は問題となり得るが現に犯罪行為と本質上同一である或る種の行為が行われているという事実並びにこれを認めている立法があるということだけから国家自身が一般に賭場開張図利乃至富籖罪を公認したものということはできない。
それ故所論は採用できない。
よつて、旧刑訴四四六条に従い主文のとおり判決する。
以上は、裁判官栗山茂を除く裁判官の一致した意見である。
裁判官栗山茂の意見は次のとおりである。
本件上告は次の理由で、不適法のものとして棄却さるべきものである。
裁判所の使命とする法律の解釈というのは、法律の政治的若しくは社会的価値即ち立法の是非の判断ではなく、法律上の訴訟の解釈に必要な法的判断を与えることである。このことは違憲法令審査の場合でも同様である。この場合にも当事者から憲法一一条にいう「この憲法が保障する基本的人権」(一二条にいう「この憲法が保障する自由及び権利」である)の中でどの自由又は権利が当該法律又はその条項によつて侵されているという主張即ち法律上の争訟があつて初めて裁判所は当該法律と憲法が保障している当該自由又は権利とについてそれぞれ解釈を試み、果して当該法律が憲法の当該保障に適合しているか否かを判断するのである。ここに初めて法律解釈としての法的判断があるのである。
もとより基本的自由及び権利は「この憲法が保障する自由及び権利」(憲法一一条及び一二条)以外に存しうるのは言うをまたない。米国憲法には「本憲法中に特定の権利を列挙した事実を以つて、人民の保持する他の権利を否認し又は軽視するものと解してはならない」という修正条項第九条がある。しかし「人民が保持する他の権利」が何であるかは結局裁判所が裁判で定めるか、それとも憲法の条項に追加するかによつて定めるの外はないのである。わが国においても少くとも当裁判所が裁判によつて定めない限り「この憲法が保障する自由及び権利」は憲法第三章に列挙されているものである。憲法が定める国会、内閣及び裁判所の各権限も、その権限の行使に対して憲法が保障する自由及び権利も、すべてこの憲法の定めるところによることは、いわゆる成文憲法の原則であつて、この原則は日本国憲法も他の国の成文憲法と同様に採用しているのは明である。そして憲法一一条一二条及び一三条は「この憲法が保障する自由及び権利」の保障そのものではなく、保障は一四条以下に列挙するものである。
以上の前提の下に、本件上告論旨を見ると、論旨は賭博行為乃至賭場開張図利の行為は公共の福祉に反するものでないと主張するだけであつて、上告人が賭場開張図利罪によつて処罰されるのは、刑法の当該条項が、この憲法が保障しているどういふ自由又は権利を侵す結果であるという主張と理由とを展開していないのである。もともと法律は国会が国政(公共の福祉もその一部である)に関する政策として制定するものであるから、かような上告論旨は立法の当否、本件では公共の福祉の判断を論議する政治的批判にすぎない。これに対する多数意見の説示は賭博行為乃至賭場開張図利行為に関する刑法規定の立法理由を説明しているのと異るところがないといえる。日本国憲法実施以来本件のように憲法一三条を楯にとつた上告論旨をしばしば見るのであるが同条は公共の福祉に適合しなければ違憲な法律であるという保障を与えているものではない。憲法のどこにも左様な保障はないのである。同条は寧ろ公共の福祉のために制定せられた法律ならば、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が制限せられる旨を規定しているのである。ここに公共の福祉というのは、観念論的な公共の福祉を言うのではない。例を挙げれば憲法二五条により国民をして健康で文化的な最低限度の生活を営ましめるに欠くべからざる立法は公共の福祉のためにされるものである。従て社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に関するものの如きはその模範的なものである。一口に言えば米法にいわゆる警察権(policepower)の仮訳である。)の作用によつて生命、自由及び幸福追求に関する権利、つまり契約の自由その他行動の自由及び財産権(憲法二二条、二九条二項参照)が制限せられることを是認した条項に外ならない。米国憲法修正条項第五条、第一四条にいういわゆる「法律の適正な手続」という辞句が立法行為に対する実体上の制限の保障にまで拡充解釈されてきた歴史は周知のとおりである。かような拡充解釈の結果、裁判所が法律解釈の末に拘泥して契約の自由その他財産権の行使の自由を過度に保護した結果となつて、政府の社会立法の実施が阻止されたため、いわゆるニウ、デイル立法の際に米国最高裁判所改組案までも論議せらるゝに至つた実例もまた周知のとおりである。こういう歴史を背景として日本国憲法の立案者は前記米国憲法にいう「法律の適正手続によらなければ、生命、自由若しくは財産を奪はれない」という規定を解体して一方にわが憲法三一条に単に「何人も法律の定める手続によらなければその生命若しくは自由を奪はれない」として「適正手続」の辞句を改め同時に財産の文字を削除し、財産権については二九条でその不可侵を保障するけれども、「財産権の内容は公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」旨を規定したのである。そして、それと同時に一三条の概括的規定を設けたものであろう。立案者の周到な用意がうかがわれるのである。
そもそも国会が立法するにしても、常に最上の政策として立法するとは限らないことは言うまでもない。次善の策(最上は一つであるが次善となれば一つとは限らぬものである。)ではあるが、国の財政状態とか国家の実状とかの政治的考慮の下に政策として決定して法律によつて実行に移すのである。又次善の策にしても甲の政党はAの政策を次善とし、乙の政党はBの政策を次善とするけれども投票(政策の価値判断の表示である。)によつてAの政策が採択されるのである。裁判所はかような政策の価値判断に代るべき判断をどうしてできるであろうか。憲法は最上級の政策でなければ適憲でないとは保障していないのである。極論すれば公共の福祉に反する法律が制定された場合に、どうして阻止するかという説があるかもしれない。それは主権者である国民が国会又は内閣を打倒するより外にないことであつて、裁判所が法令審査権を以てしても主権者と並んで立つものではないはずである。こう考えて見ると、憲法一三条は立法権の作用と司法権の作用とを調整することを目標とした法令審査権の限界に関する原則を定めたものと言つてよいであろう。要するに、本件論旨のように公共の福祉に反するものでないという主張は国会え申出ずべき筋合のもので、裁判所え訴え出ずべき筋合のものではないのであるから、上告不適法の論旨たるを免れないと言うのである。
検察官堀忠嗣関与
昭和二五年一一月二二日
最高裁判所大法廷
裁判長裁判官 田 中 耕 太 郎
裁判官 塚 崎 直 義
裁判官 長 谷 川 太 一 郎
裁判官 澤 田 竹 治 郎
裁判官 霜 山 精 一
裁判官 栗 山 茂
裁判官 真 野 毅
裁判官 小 谷 勝 重
裁判官 齋 藤 悠 輔
裁判官 藤 田 八 郎
裁判官 河 村 又 介
裁判官 穂 積 重 遠
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調査官解説
(15) 〔決定要旨〕 号裁三一 五‘小二 巻東八年 ○第法六 第京日(あ) 四審月六 第一○和 六地第第 集第一昭 遊技機を設置して行う常習賭博罪の罪となるべき事実の摘示の程度九二廷三 頁審決号 定】 東同京棄六 高却一 数の賭客を相手とし、多数回にわたり、右遊技機を使用して賭博をした」旨判示した程度であっても、常習賭博罪在地、営業継続期間、遊技機の種類・台数、賭博の態様を摘示したうえ、「右期間中、常習として、甲ほか不特定多技場の営業継続期間の全般にわたって行われた各賭博行為を一個の常習賭博罪と認定する場合には、右遊技場の所多数の賭博遊技機を設置した遊技場の経営者が、不特定多数の遊技客との賭博を反覆継続した事案につき、右遊裁年 の罪となるべき事実の具体的摘示として欠けるところはない。〔解説〕 〔参照条文〕 刑法一八六条一項、刑訴法二五六条三項、三三五条一項 一事案の概要と経過 被告人は、以下のように、多数の賭博遊技機を設置した遊技場を経営していた。 1 員が交替制で勤務し、両替、換金その他の客へのサービス等の業務に従事し、被告人自身が店に出て客と応対する名の従業員を雇い入れるなどしたうえ、昭和五九年三月六日、「麻雀道場ロン」を開店した。同店においては、従業すなわち、被告人は、貸店舗の一階部分を賃借し、賭博遊技機である「麻雀ゲーム機」一五台を設置し、Aら三遊技機を設置して行う常習賭博罪の罪となるべき事実の摘示の程度 二五七 であった。 五月ころ故障したため、それ以降は一四台で営業していた。また、二階部分は、毎日午前五時ころから翌日午前三休、二四時間営業の形で営業を継続し、客はほとんど毎日来店していた。使用していた遊技機一五台のうち一台が同店一階部分は、月三回位の割合で月曜日の午前五時ころから九時ころまで閉店したものの、それ以外は年中無馬ゲーム機」三台を設置し、Aを二階部分の店長としたうえ、同年五月三一日から右部分の営業を始めた。ようなことはなかった。その後、被告人は、店舗の拡張を企図し、二階部分も賃借して「麻雀ゲーム機」二台と「競時ころまで開店し、その間、遊技機が故障したことはなく、客が入らない日もなかった。の賭博行為により被告人が収めた利益は、優に一○○○万円を超えるものであって、客が賭金として遊技機に投入までの間に右遊技機で賭博をした客は、甲ら三名のほかにも多数存在したが、その氏名は分かっていない。この間が常習賭博の現行犯人としてそれぞれ逮捕され、また、各遊技機や現金等が押収された。三月六日から六月二五日同店は、同年六月二五日午後、警察の捜査を受け、賭客の甲ら三名が賭博の現行犯人として、勤務中の従業員Bじた額の現金の支払いを受けるが、負けると投入した硬貨又はコインを失い、被告人がこれを取得するというものースの予想を見て勝馬投票をし、その的中の如何によって勝負を争うというものであり、客が勝つと得た点数に応負を争い、「競馬ゲーム機」では客が現金一〇〇〇円につき一枚の割合で交換したコインを投入し、画面に現れるレ「賭博の方法は、「麻雀ゲーム機」では客が一〇〇円硬貨を投入し、その画面に現れる麻雀牌の組合せ等によって勝し、あるいはコインと取り替えた現金の額は、右利益額を更に相当程度上回るものである。五九年三月六日ころから同店に『麻雀ゲーム機』と称する遊技機等一五台ないし一九台を設置し、常習として、同このような事案につき、検察官は、「被告人は、『麻雀道場ロン』の経営者であるが、Aと共謀のうえ、昭和 2 二五八 してその画面に現れる麻雀牌の組合せ等によって勝負を争う方法の賭博をした」という営業継続期間全般にわたる日ころから同年六月二五日までの間、同店において、賭客の甲らを相手方として、金銭を賭け、右遊技機等を使用広い公訴事実で起訴し、被告人も右事実を争わなかった。常習賭博罪は、賭博行為の常習性を刑の加重事由としているにすぎず、営業犯の規定ではないから、経営者 (1) 在を立証する必要があるとし、証拠上特定できる賭客を相手方とする賭博行為の範囲でのみ有罪認定をした。 ところが、一審判決は、以下のような理由により、常習賭博罪を適用するには個々の賭客との賭博行為の存3 の賭博行為の営業性をもって個々の賭客の存在の立証を不要とするものではない。そのような状態を維持し、両替や換金に応ずるなどの賭客との応接の用意をし続けることでもあるから、個々の賭遊技機賭博の経営者の実行行為は、遊技機を設置して機械が作動するような状態にしておくばかりでなく、 2 客の賭博行為に対応して経営者の個々の賭博行為が成立することになる。は、遊技場を開店した時点からのすべての賭博行為とするに至っているものである。個々の賭博行為の特定ができを検挙当日の賭客全員とのそれに広げたり、遊技機内の賭金を最後に回収した後の賭博行為全部としたり、さらにせた賭客のみを相手方とする訴因で起訴したこともあったが、没収、追徴の範囲を広げるために、訴因の賭博行為させて賭博行為をしているのを現認して初めて検挙するのが通常である。また、検察官も、従来は検挙時に居合わ取締りの実態等からみると、警察では、賭博遊技場が開店しているだけでは検挙せず、賭客が遊技機を作動 (4) 及んでいるから、個々の賭客の存在を明らかにし、その賭客との間の賭博行為としての刑事責任を問うべきである。賭博罪の保護対象は、国民一般の健全な勤労観念等の公益のみでなく、個人の勤労観念や財産等の私益にも (3) 遊技機を設置して行う常習賭博罪の罪となるべき事実の摘示の程度 5 ないような犯罪事実を前提として没収、追徴することに踏躇を感ずる。 二五九国立個別指導塾の場所
【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |